人に
いやなんです あなたのいつてしまふのが
花よりさきに実のなるやうな
種子よりさきに芽の出るやうな 夏から春のすぐ来るやうな そんな理窟に合はない不自然を どうかしないでゐて下さい 型のやうな旦那さまと まるい字をかくそのあなたと かう考へてさへなぜか私は泣かれます 小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて
いやなんです あなたのいつてしまふのが
なぜさうたやすく さあ何といひませう まあ言はば その身を売る気になれるんでせう あなたはその身を売るんです 一人の世界から 万人の世界へ そして男に負けて 無意味に負けて ああ何といふ醜悪事でせう まるでさう チシアンの画いた絵が 鶴巻町へ買物に出るのです 私は淋しい かなしい 何といふ気はないけれど ちやうどあなたの下すつた あのグロキシニヤの 大きな花の腐つてゆくのを見る様な 私を棄てて腐つてゆくのを見る様な 空を旅してゆく鳥の ゆくへをぢつとみてゐる様な 浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ はかない 淋しい 焼けつく様な それでも恋とはちがひます サンタマリア ちがひます ちがひます 何がどうとはもとより知らねど
いやなんです あなたのいつてしまふのが
おまけにお嫁にゆくなんて よその男のこころのままになるなんて
或る夜のこころ
七月の夜の月は 見よ、ポプラアの林に熱を病めり かすかに漂ふシクラメンの香りは 言葉なき君が唇にすすり泣けり 森も、道も、草も、遠き
街も いはれなきかなしみにもだえて ほのかに白き溜息を吐けり ならびゆくわかき二人は 手を取りて黒き土を踏めり みえざる魔神はあまき酒を傾け 地にとどろく終列車のひびきは人の運命をあざわらふに似たり 魂はしのびやかに痙攣をおこし 印度
更紗の帯はやや汗ばみて 拝火教徒の忍黙をつづけむとす こころよ、こころよ わがこころよ、めざめよ 君がこころよ、めざめよ こはなに事を意味するならむ 断ちがたく、苦しく、のがれまほしく 又あまく、去りがたく、堪へがたく こころよ、こころよ
病の床を起き出でよ そのアツシシユの仮睡をふりすてよ されど眼に見ゆるもの今はみな狂ほしきなり 七月の夜の月も 見よ、ポプラアの林に熱を病めり やみがたき病よ わがこころは温室の草の上 うつくしき毒虫の為にさいなまる こころよ、こころよ あはれ何を呼びたまふや 今は無言の領する夜半なるものを
涙
世は今、いみじき事に悩み 人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり われら心の底に涙を満たして さりげなく笑みかはし 松本楼の庭前に氷菓を味へば 人はみな、いみじき事の噂に眉をひそめ かすかに耳なれたる鈴の音す われら僅かに語り 痛く、するどく、つよく、是非なき 夏の夜の氷菓のこころを嘆き つめたき銀器をみつめて 君の小さき扇をわれ奪へり 君は暗き路傍に立ちてすすり泣き われは物言はむとして物言はず
路ゆく人はわれらを見て かのいみじき事に祈りするものとなせり あはれ、あはれ これもまた或るいみじき歎きの為めなれば よしや姿は艶に過ぎたりとも 人よ、われらが涙をゆるしたまへ
おそれ
いけない、いけない 静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない まして石を投げ込んではいけない 一滴の水の微顫も 無益な千万の波動をつひやすのだ 水の静けさを貴んで 静寂の
価を量らなければいけない あなたは其のさきを私に話してはいけない あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい 出せば
則ち雷火である あなたは女だ 男のやうだと言はれても矢張女だ あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ 世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ それでいい、それでいい その夢を
現にかへし 永遠を刹那にふり戻してはいけない その上 この澄みきつた水の中へ そんなあぶないものを投げ込んではいけない 私の心の静寂は血で買つた宝である あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である この静寂は私の
生命であり この静寂は私の神である しかも気むつかしい神である 夏の夜の食慾にさへも 尚ほ烈しい
擾乱を惹き起すのである あなたはその一点に手を触れようとするのか
いけない、いけない あなたは静寂の価を量らなければいけない さもなければ 非常な覚悟をしてかからなければいけない その一個の石の起す波動は あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない 百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない あなたは女だ これに堪へられるだけの力を作らなければならない それが出来ようか あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない 御覧なさい
煤烟と油じみの停車場も 今は此の月と少し暑くるしい
靄との中に 何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか あの青と赤とのシグナルの明りは 無言と送目との間に絶大な役目を果たし はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる 私は今何かに囲まれてゐる 或る雰囲気に 或る不思議な調節を
司る無形な力に そして最も貴重な平衡を得てゐる 私の魂は永遠をおもひ 私の肉眼は万物に無限の価値を見る しづかに、しづかに 私は今或る力に絶えず触れながら 言葉を忘れてゐる
いけない、いけない 静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない まして石を投げ込んではいけない
からくりうた(覗きからくりの絵の極めてをさなきをめづ)
国はみちのく、二本松のええ 赤の煉瓦の 酒倉越えて 酒の泡からひよつこり生れた 酒のやうなる よいそれ、女が逃げたええ 逃げたそのさきや吉祥寺 どうせ火になる吉祥寺
阿武隈川のええ 水も此の火は消せなんだとねえ 酒と水とは、つんつれ ほんに
敵同志ぢやええ 酒とねえ、水とはねえ
或る宵
瓦斯の暖炉に火が燃える ウウロン茶、風、細い夕月 それだ、それだ、それが世の中だ 彼等の欲する真面目とは礼服の事だ 人工を天然に加へる事だ 直立不動の姿勢の事だ 彼等は自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた
曾て裸体のままでゐた冷暖自知の心を あなたは
此を見て何も不思議がる事はない それが世の中といふものだ 心に多くの俗念を抱いて 眼前
咫尺の間を見つめてゐる厭な冷酷な人間の集りだ それ故、真実に生きようとする者は むかしから、今でも、このさきも 却て
真摯でないとせられる あなたの受けたやうな迫害をうける
卑怯な彼等は 又誠意のない彼等は 初め驚異の声を発して我等を眺め
ありとある雑言を唄つて彼等の
閑な時間をつぶさうとする 誠意のない彼等は事件の人間をさし置いて
唯事件の当体をいぢくるばかりだ いやしむべきは世の中だ
愧づべきは其の渦中の
矮人だ 我等は
為すべき事を為し 進むべき道を進み 自然の
掟を尊んで 行住坐臥我等の思ふ所と自然の定律と相もとらない境地に到らなければならない 最善の力は自分等を信ずる所にのみある 蛙のやうな醜い彼等の姿に驚いてはいけない
むしろ其の姿にグロテスクの美を御覧なさい 我等はただ愛する心を味へばいい あらゆる紛糾を破つて 自然と自由とに生きねばならない 風のふくやうに、雲の飛ぶやうに 必然の理法と、内心の要求と、
叡智の暗示とに嘘がなければいい 自然は賢明である 自然は細心である 半端物のやうな彼等のために心を悩ますのはお
止しなさい さあ、又銀座で質素な
飯でも喰ひませう
梟の族
聞いたか、聞いたか ぼろすけぼうぼう 軽くして責なき人の口の端 森のくらやみに住む
梟の黒き毒に染みたるこゑ
街と
木木とにひびき わが耳を襲ひて堪へがたし わが耳は夜陰に痛みて 心にうつる君が影像を悲しみ
窺ふ かろくして責なきは あしき鳥の
性なり きいたか、きいたか ぼろすけぼうぼう おのが声のかしましき反響によろこび 友より友に伝説をつたへてほこる 梟の族、あしきともがら われは彼等よりも強しとおもへど 彼等はわれよりも多弁にして 暗示に富みたる眼と、物を蔵する言語とを有せり さればかろくして責なき その声のひびきのなやましさよ 聞くに堪へざる俗調は 君とわれとの心を取りて不倫と滑稽との境に擬せむとす のろはれたるもの 梟の族、あしきともがらよ されどわが心を狂ほしむるは むしろかかるおろかしきなやましさなり 声は又も来る、又も来る きいたか、きいたか ぼろすけぼうぼう
郊外の人に
わがこころはいま
大風の如く君にむかへり 愛人よ いまは青き
魚の肌にしみたる寒き夜もふけ渡りたり
されば安らかに郊外の家に眠れかし をさな児のまことこそ君のすべてなれ あまり清く透きとほりたれば これを見るもの皆あしきこころをすてけり また善きと悪しきとは
被ふ所なくその前にあらはれたり 君こそは
実にこよなき
審判官なれ 汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に をさな児のまこともて 君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ 君の見いでつるものをわれは知らず ただ我は君をこよなき
審判官とすれば 君によりてこころよろこび わがしらぬわれの わがあたたかき肉のうちに
籠れるを信ずるなり 冬なれば
欅の葉も落ちつくしたり 音もなき夜なり わがこころはいま大風の如く君に向へり そは地の底より湧きいづる貴くやはらかき
温泉にして 君が清き肌のくまぐまを残りなくひたすなり わがこころは君の動くがままに はね をどり 飛びさわげども つねに君をまもることを忘れず 愛人よ こは
比ひなき命の霊泉なり されば君は安らかに眠れかし 悪人のごとき寒き冬の夜なれば いまは安らかに郊外の家に眠れかし をさな児の如く眠れかし
冬の朝のめざめ
冬の朝なれば ヨルダンの川も薄く氷りたる
可し われは白き毛布に包まれて我が
寝室の内にあり
基督に洗礼を施すヨハネの心を ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を 我はわがこころの中に求めむとす 冬の朝なれば
街より つつましくからころと下駄の音も響くなり 大きなる自然こそはわが全身の所有なれ しづかに運る天行のごとく われも歩む可し するどきモツカの香りは よみがへりたる精霊の如く眼をみはり いづこよりか室の内にしのび入る われは此の時 むしろ数理学者の冷静をもて 世人の
形くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る 起きよ我が愛人よ 冬の朝なれば 郊外の家にも
鵯は
夙に来鳴く可し わが愛人は今くろき眼を
開きたらむ をさな児のごとく手を伸ばし 朝の光りを喜び 小鳥の声を笑ふならむ かく思ふとき 我は堪へがたき力の為めに動かされ 白き毛布を打ちて 愛の
頌歌をうたふなり 冬の朝なれば こころいそいそと励み また高くさけび 清らかにしてつよき生活をおもふ 青き
琥珀の空に 見えざる金粉ぞただよふなる ポインタアの吠ゆる声とほく
来れば ものを求むる我が習癖はふるひ立ち たちまちに又わが愛人を恋ふるなり
冬の朝なれば ヨルダンの川に氷を
噛まむ
深夜の雪
あたたかいガスだんろの火は ほのかな音を立て しめきつた書斎の電燈は しづかに、やや疲れ気味の二人を照す 宵からの曇り空が雪にかはり さつき
から見れば もう一面に白かつたが ただ音もなく降りつもる雪の重さを 地上と屋根と二人のこころとに感じ むしろ楽みを包んで軟かいその重さに 世界は息をひそめて子供心の眼をみはる 「これみや、もうこんなに積つたぜ」 と、にじんだ声が遠くに聞え やがてぽんぽんと下駄の歯をはたく音 あとはだんまりの夜も十一時となれば 話の種さへ切れ 紅茶もものうく ただ二人手をとつて 声の無い此の世の中の深い心に耳を傾け 流れわたる時間の姿をみつめ ほんのり汗ばんだ顔は安らかさに満ちて ありとある人の感情をも
容易くうけいれようとする 又ぽんぽんぽんとはたく音の後から 車らしい何かの響き 「ああ、御覧なさい、あの雪」と、私が言へば 答へる人は忽ち童話の中に生き始め かすかに口を開いて 雪をよろこぶ 雪も深夜をよろこんで 数限りもなく降りつもる あたたかい雪 しんしんと身に迫つて重たい雪が
人に
遊びぢやない 暇つぶしぢやない あなたが私に会ひに来る 画もかかず、本も読まず、仕事もせず そして二日でも、三日でも 笑ひ、戯れ、飛びはね、又抱き さんざ時間をちぢめ 数日を一瞬に果す ああ、けれども それは遊びぢやない 暇つぶしぢやない 充ちあふれた我等の余儀ない命である 生である 力である 浪費に過ぎ過多に走るものの様に見える 八月の自然の豊富さを あの山の奥に花さき朽ちる草草や 声を発する日の光や 無限に動く雲のむれや ありあまる
雷霆や 雨や水や 緑や赤や青や黄や 世界にふき出る勢力を
無駄づかひと
何うして言へよう あなたは私に躍り 私はあなたにうたひ 刻刻の生を一ぱいに歩むのだ 本を
抛つ刹那の私と 本を開く刹那の私と 私の量は
同じだ 空疎な精励と 空疎な遊惰とを 私に関して聯想してはいけない 愛する心のはちきれた時 あなたは私に会ひに来る すべてを棄て、すべてをのり超え すべてをふみにじり 又嬉嬉として
人類の泉
世界がわかわかしい緑になつて 青い雨がまた降つて来ます この雨の音が むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて いつも私を
堪らなくおびやかすのです そして私のいきり立つ魂は 私を乗り超え私を
脱れて づんづんと私を作つてゆくのです いま死んで いま生れるのです 二時が三時になり 青葉のさきから又も若葉の
萌え出すやうに 今日もこの魂の加速度を 自分ながら胸一ぱいに感じてゐました そして極度の静寂をたもつて ぢつと坐つてゐました 自然と涙が流れ 抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました あなたは本当に私の半身です あなたが一番たしかに私の信を握り あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです 私にはあなたがある あなたがある 私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです おそろしい
自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます 私の
生を根から見てくれるのは 私を全部に解してくれるのは ただあなたです 私は自分のゆく道の
開路者です 私の正しさは草木の正しさです ああ あなたは
其を生きた眼で見てくれるのです もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます あなたは海水の流動する力をもつてゐます あなたが私にある事は 微笑が私にある事です あなたによつて私の
生は複雑になり 豊富になります そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです 私は今生きてゐる社会で もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました もう共に手を取る友達はありません ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです 私はこの孤独を悲しまなくなりました
此は自然であり 又必然であるのですから そしてこの孤独に満足さへしようとするのです けれども 私にあなたが無いとしたら ああ それは想像も出来ません 想像するのも愚かです 私にはあなたがある あなたがある そしてあなたの内には大きな愛の世界があります 私は人から離れて孤独になりながら あなたを通じて再び人類の生きた
気息に接します ヒユウマニテイの中に活躍します すべてから脱却して ただあなたに向ふのです 深いとほい人類の泉に肌をひたすのです あなたは私の為めに生れたのだ 私にはあなたがある あなたがある あなたがある
僕 等
僕はあなたをおもふたびに 一ばんぢかに永遠を感じる 僕があり あなたがある 自分はこれに尽きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ
渾沌としたはじめにかへる すべての差別見は僕等の間に価値を失ふ 僕等にとつては
凡てが絶対だ そこには世にいふ男女の戦がない 信仰と
敬虔と恋愛と自由とがある そして大変な力と権威とがある 人間の一端と他端との融合だ 僕は丁度自然を信じ切る心安さで 僕等のいのちを信じてゐる そして世間といふものを
蹂躪してゐる 頑固な俗情に打ち勝つてゐる 人ははるかに
其処をのり超えてゐる 僕は自分の痛さがあなたの痛さである事を感じる 僕は自分のこころよさがあなたのこころよさである事を感じる 自分を
恃むやうにあなたをたのむ 自分が伸びてゆくのはあなたが育つてゆく事だとおもつてゐる 僕はいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はないと信じ 安心してゐる 僕が活力にみちてる様に あなたは若若しさにかがやいてゐる あなたは火だ あなたは僕に古くなればなるほど新しさを感じさせる 僕にとつてあなたは新奇の無尽蔵だ 凡ての枝葉を取り去つた現実のかたまりだ あなたのせつぷんは僕にうるほひを与へ あなたの抱擁は僕に
極甚の滋味を与へる あなたの冷たい手足 あなたの重たく まろいからだ あなたの燐光のやうな皮膚 その四肢胴体をつらぬく生きものの力
此等はみな僕の最良のいのちの
糧となるものだ あなたは僕をたのみ あなたは僕に生きる それがすべてあなた自身を生かす事だ 僕等はいのちを惜しむ 僕等は休む事をしない 僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない 伸びないでは 大きくなりきらないでは 深くなり通さないでは 何といふ光だ 何といふ喜だ
愛の嘆美
底の知れない肉体の慾は あげ潮どきのおそろしいちから なほも燃え立つ汗ばんだ火に
火竜はてんてんと躍る ふりしきる雪は深夜に
婚姻飛揚の
宴をあげ
寂寞とした空中の歓喜をさけぶ われらは世にも美しい力にくだかれ このとき
深密のながれに身をひたして いきり立つ
薔薇いろの
靄に息づき
因陀羅網の
珠玉に照りかへして われらのいのちを無尽に鋳る 冬に
潜む揺籃の魔力と 冬にめぐむ
下萌の生熱と すべての内に燃えるものは「時」の脈搏と共に脈うち われらの全身に
恍惚の電流をひびかす われらの皮膚はすさまじくめざめ われらの内臓は生存の喜にのたうち 毛髪は
蛍光を発し 指は独自の生命を得て五体に
匍ひまつはり
道を蔵した渾沌のまことの世界は たちまちわれらの上にその姿をあらはす 光にみち 幸にみち あらゆる差別は一音にめぐり 毒薬と甘露とは其の
筺を同じくし 堪へがたい
疼痛は身をよぢらしめ 極甚の法悦は不可思議の迷路を輝かす われらは雪にあたたかく埋もれ 天然の
素中にとろけて 果てしのない地上の愛をむさぼり はるかにわれらの
生を
讃めたたへる
晩 餐
暴風をくらつた土砂ぶりの中を ぬれ鼠になつて 買つた米が一升 二十四銭五厘だ くさやの
干ものを五枚
沢庵を一本
生姜の
赤漬 玉子は
鳥屋から
海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
薩摩あげ かつをの
塩辛 湯をたぎらして 餓鬼道のやうに
喰ふ我等の晩餐 ふきつのる嵐は 瓦にぶつけて
家鳴震動のけたたましく われらの食慾は頑健にすすみ ものを喰らひて
己が血となす本能の力に迫られ やがて飽満の恍惚に入れば われら静かに手を取つて 心にかぎりなき喜を叫び かつ祈る 日常の
瑣事にいのちあれ 生活のくまぐまに
緻密なる光彩あれ われらのすべてに溢れこぼるるものあれ われらつねにみちよ われらの晩餐は 嵐よりも烈しい力を帯び われらの食後の倦怠は 不思議な肉慾をめざましめて 豪雨の中に燃えあがる われらの五体を讃嘆せしめる まづしいわれらの晩餐はこれだ
淫 心
をんなは多淫 われも多淫 飽かずわれらは 愛慾に光る 縦横
無礙の淫心 夏の夜の むんむんと蒸しあがる
瑠璃黒漆の大気に 魚鳥と化して躍る つくるなし われら共に超凡 すでに尋常規矩の網目を破る われらが力のみなもとは 常に創世期の混沌に発し 歴史はその果実に生きて その時
劫を滅す されば 人間世界の成壌は われら現前の一点にあつまり われらの大は無辺際に充ちる 淫心は胸をついて われらを憤らしめ 万物を拝せしめ 肉身を飛ばしめ われら大声を放つて 無二の栄光に浴す をんなは多淫 われも多淫 淫をふかめて往くところを知らず 万物をここに持す われらますます多淫 地熱のごとし 烈烈
樹下の二人
みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ
あれが
阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、うつとりねむるやうな頭の中に、ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。この大きな冬のはじめの野山の中に、あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。あなたは不思議な
仙丹を魂の壺にくゆらせて、ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。無限の境に烟るものこそ、こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、むしろ魔もののやうに
捉へがたい妙に変幻するものですね。あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。ここはあなたの生れたふるさと、あの小さな白壁の点点があなたのうちの
酒庫。それでは足をのびのびと投げ出して、このがらんと晴れ渡つた
北国の木の香に満ちた空気を吸はう。あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。私は又あした遠く去る、あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。ここはあなたの生れたふるさと、この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。まだ松風が吹いてゐます、もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。
狂奔する牛
ああ、あなたがそんなにおびえるのは 今のあれを見たのですね。まるで通り魔のやうに、この深山の
まきの林をとどろかして、この深い
寂寞の境にあんな
雪崩をまき起して、今はもうどこかへ往つてしまつたあの狂奔する牛の群を。今日はもう止しませう、画きかけてゐたあの穂高の三角の屋根にもうテル ヴエルトの雲が出ました槍の氷を溶かして来るあのセルリヤンの
梓川にもう山山がかぶさりました。谷の
白楊が遠く風になびいてゐます。今日はもう画くのを止してこの人跡たえた神苑をけがさぬほどに又好きな
焚火をしませう。天然がきれいに掃き清めたこの
苔の上にあなたもしづかにおすわりなさい。あなたがそんなにおびえるのはどつと逃げる牝牛の群を追ひかけてものおそろしくも息せき切つた、血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性をいつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう。もつと多くの事をこの身に知つて、いつかは静かな愛にほほゑみながら
金
工場の泥を凍らせてはいけない。智恵子よ、夕方の台所が如何に淋しからうとも、石炭は焚かうね。寝部屋の毛布が薄ければ、上に坐蒲団をのせようとも、夜明けの寒さに、工場の泥を凍らせてはいけない。私は冬の寝ずの番、水銀柱の
斥候を放つて、あの北風に逆襲しよう。少しばかり正月が淋しからうとも、智恵子よ、石炭は焚かうね。
鯰
盥の中でぴしやりとはねる音がする。夜が更けると小刀の刃が
冴える。木を削るのは冬の夜の北風の
為事である。煖炉に入れる石炭が無くなつても、
鯰よ、お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。檜の
木片は私の
眷族、智恵子は貧におどろかない。鯰よ、お前の
鰭に剣があり、お前の尻尾に触角があり、お前の
鰓に黒金の覆輪があり、さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、何と面白い私の為事への挨拶であらう。
風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。智恵子は寝た。私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
研水を新しくして
更に鋭い明日の小刀を
瀏瀏と研ぐ。
夜の二人
私達の最後が餓死であらうといふ予言は、しとしとと雪の上に降る
霙まじりの夜の雨の言つた事です。智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれどまだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持つてゐます。
私達はすつかり黙つてもう一度雨をきかうと耳をすましました。少し風が出たと見えて
薔薇の枝が窓硝子に爪を立てます。
あなたはだんだんきれいになる
をんなが附属品をだんだん棄てると どうしてこんなにきれいになるのか。年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。見えも外聞もてんで歯のたたない中身ばかりの
清冽な生きものが生きて動いてさつさつと意慾する。をんながをんなを取りもどすのはかうした世紀の修業によるのか。あなたが黙つて立つてゐるとまことに神の造りしものだ。時時内心おどろくほどあなたはだんだんきれいになる。
あどけない話
智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。私は驚いて空を見る。桜若葉の間に在るのは、
切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ。どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。あどけない空の話である。
同棲同類
私は口をむすんで粘土をいぢる。智恵子はトンカラ
機を織る。鼠は床にこぼれた
南京豆を取りに来る。それを雀が横取りする。カマキリは物干し綱に鎌を研ぐ。蠅とり
蜘蛛は三段飛。かけた手拭はひとりでじやれる。郵便物ががちやりと落ちる。時計はひるね。
鉄瓶もひるね。
芙蓉の葉は舌を垂らす。づしんと小さな地震。油蝉を伴奏にしてこの一群の同棲同類の頭の上から子午線上の大火団がまつさかさまにがつと照らす。
美の監禁に手渡す者
納税告知書の赤い手触りが
袂にある、やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。売る事の理不尽、
購ひ得るものは所有し得る者、所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。両立しない造形の秘技と貨幣の強引、両立しない創造の喜と不耕
貪食の
苦さ。がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び
木片、ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。
人生遠視
足もとから鳥がたつ 自分の妻が狂気する 自分の着物がぼろになる 照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる
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