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智恵子抄(その3)


うた六首


ひとむきにむしやぶりつきて為事するわれをさびしと思ふな智恵子 気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき この家に智恵子の息吹いぶきみちてのこりひとりめつぶるをいねしめず 光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所ここに住みにき


智恵子の半生 

妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒ぞくりゆう性肺結核で死んでから旬日で満二年になる。私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽はいたい生活から救ひ出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。一日の製作の終りにもそれを彼女と一緒に検討する事が此上このうえもない喜であつた。又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作つた木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫あいぶした。彼女の居ないこの世で誰が私の彫刻をそのやうに子供のやうにうけ入れてくれるであらうか。もう見せる人も居やしないといふ思が私を幾箇月間か悩ました。美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。自分の作つたものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるといふ意識ほど、美術家にとつて力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。製作の結果は或は万人の為のものともなることがあらう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらひたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はさういふ人を妻の智恵子に持つてゐた。その智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私とともにある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処そこに居る。彼女は何処どこにでも居るのである。
 智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、さうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかつた。彼女はさういふ渦巻の中で、宿命的に持つてゐた精神上の素質の為に倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観ていかんとのあざなはれた波濤はとうの間に没し去つた。彼女の追憶について書く事を人から幾度か示唆しさされても今日まで其を書く気がしなかつた。あまりなまなましい苦闘のあとは、たとひ小さな一隅の生活にしても筆にするに忍びなかつたし、又いはば単なる私生活の報告のやうなものに果してどういふ意味があり得るかといふ疑問も強く心を牽制けんせいしてゐたのである。だが今は書かう。出来るだけ簡単に此の一人の女性の運命を書きとめて置かう。大正昭和の年代に人知れずういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事を書き記して、それをあはれな彼女へのはなむけとする事を許させてもらはう。一人に極まれば万人に通ずるといふことを信じて、今日のやうな時勢の下にも敢て此の筆を執らうとするのである。
 今しづかに振りかへつて彼女の上を考へて見ると、その一生を要約すれば、まづ東北地方福島県二本松町の近在、漆原といふ所の酒造り長沼家に長女として明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけてゐるうちに洋画に興味を持ち始め、女子大学卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京にとどまり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であつた中村つね、斎藤与里治、津田青楓せいふうの諸氏に出入して其の影響をうけ、又一方、其頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加はり、雑誌「青鞜せいとう」の表紙画などを画いたりした。それが明治末年頃の事であり、やがて柳八重子女史の紹介で初めて私と知るやうになり、大正三年に私と結婚した。結婚後も油絵の研究に熱中してゐたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるやうな月日も漸く多くなり、その上肋膜ろくまくを病んで以来しばしば病臥びようがを余儀なくされ、後年郷里の家君をうしなひ、つづいて実家の破産にひんするにあひ、心痛苦慮は一通りでなかつた。やがて更年期の心神変調がもととなつて精神異状の徴候があらはれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸ひ薬毒からは免れて一旦健康を恢復かいふくしたが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症にとらへられ、其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしづかに瞑目めいもくしたのである。
 彼女の一生は実に単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義をつ生活に触れなかつた。わづかに「青鞜」に関係してゐた短い期間がその社会的接触のあつた時と言へばいえる程度に過ぎなかつた。社会的関心を持たなかつたばかりでなく、生来社交的でなかつた。「青鞜」に関係してゐた頃所謂いはゆる新らしい女の一人として一部の人達の間に相当に顔を知られ、長沼智恵子といふ名がその仲間の口に時々上つたのも、実は当時のゴシツプ好きの連中が尾鰭をひれをつけていろいろ面白さうに喧伝けんでんしたのが因であつて、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途いちずな性格で押し通してゐたらしかつた。長沼さんとは話がしにくいといふのが当時の女友達の本当の意見のやうであつた。私は其頃の彼女をあまり善く知らないのであるが、津田青楓氏が何かに書いてゐた中に、彼女が高い塗下駄をはいて着物の裾を長く引きずるやうにして歩いてゐたのをよく見かけたといふやうな事があつたのを記憶する。そんな様子や口数の少いところから何となく人が彼女に好奇的ななぞでも感じてゐたのではないかと思はれる。女水滸伝すいこでんのやうに思はれたり、又風情ふぜいごのみのやうに言はれたりしたやうであるが実際はもつと素朴で無頓着むとんちやくであつたのだらうと想像する。
 私は彼女の前半生を殆ど全く知らないと言つていい。彼女について私が知つてゐるのは紹介されて彼女とつてから以後の事だけである。現在の事で一ぱいで、以前の事を知らうとする気も起らなかつたし、年齢さへ実は後年まで確実には知らなかつたのである。私が知つてからの彼女は実に単純真摯しんしな性格で、心に何か天上的なものをいつでもたたへて居り、愛と信頼とに全身を投げ出してゐたやうな女性であつた。生来の勝気から自己の感情はかなり内に抑へてゐたやうで、物腰はおだやかで軽佻けいちような風は見られなかつた。自己を乗り越えて進まうとする気力の強さには時々驚かされる事もあつたが、又そこに随分無理な努力も人知れず重ねてゐたのである事を今日から考へると推察する事が出来る。
 その時には分らなかつたが、後から考へてみれば、結局彼女の半生は精神病にまで到達するやうに進んでゐたやうである。私との此の生活では外に往く道はなかつたやうに見える。どうしてさうかと考へる前に、もつと別な生活を想像してみると、例へば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のやうな美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事してゐるやうな者であつた場合にはどうであつたらうと考へられる。或はもつと天然の寿を全うし得たかも知れない。さう思はれるほど彼女にとつては肉体的に既に東京が不適当の地であつた。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしてゐた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗つたり、テニスに熱中したりしてすこぶる元気溌剌たる娘時代を過したやうであるが、卒業後は概してあまり頑健といふ方ではなく、様子もほつそりしてゐて、一年の半分近くは田舎や、山へ行つてゐたらしかつた。私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体からだたないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつてなげいた。私の「あどけない話」といふ小詩がある。

智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、切つても切れない むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山あたたらやまの山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
 

 私自身は東京に生れて東京に育つてゐるため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染なじむ事だらうと思つてゐたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかつた。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしてゐた。家のまはりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合ゆり花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフエンの第六交響楽レコオドへの惑溺わくできといふやうな事は皆この要求充足の変形であつたに相違なく、此の一事だけでも半生にわたる彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであつたであらう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持つて行つたサンキストのレモンの一顆いつかを手にした彼女の喜もまたこの一筋につながるものであつたらう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗はれてゐるやうに見えた。
 彼女がつひに精神の破綻はたんを来すに至つた更に大きな原因は何といつてもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基く日常生活の営みとの間に起る矛盾撞着どうちやくの悩みであつたであらう。彼女は絵画を熱愛した。女子大在学中既に油絵を画いてゐたらしく、学芸会にける学生劇の背景製作などをいつも引きうけて居たといふ事であり、故郷の両親が初めは反対してゐたのに遂に画家になる事を承認したのも、其頃画いた祖父の肖像画の出来ばえが故郷の人達を驚かしたのに因ると伝へ聞いてゐる。この油絵は、私も後に見たが、素朴な中に渋い調和があり、色価の美しい作であつた。卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかつたかと思はれる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまつて私には見せなかつた。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかつた。私と一緒になつてからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰つた時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではつひにまだ本格的に画くまでに至らなかつた。彼女はセザンヌに傾倒してゐて自然とその影響をうける事も強かつた。私もその頃は彫刻の外に油絵も画いてゐたが、勉強の部屋は別にしてゐた。彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかつたので自虐に等しいと思はれるほど自分自身を責めさいなんだ。或年、故郷に近い五色温泉に夏を過して其処の風景を画いて帰つて来た。その中の小品に相当にいものがあつたので、彼女も文展に出品する気になつて、他の大幅のものと一緒にそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても彼女は何処の展覧会へも出品しようとしなかつた。自己の作品を公衆に展示する事によつて何か内に鬱積うつせきするものを世に訴へ、外に発散せしめる機会を得るといふ事も美術家には精神の助けとなるものだと思ふのであるが、さういふ事から自己を内に閉ぢこめてしまつたのも精神の内攻的傾向を助長したかも知れない。彼女は最善をばかり目指してゐたので何時いつでも自己に不満であり、いつでも作品は未完成に終つた。又事実その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争はれなかつた。その素描にはすばらしい力と優雅とを持つてゐたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかつた。彼女はそれを悲しんだ。時々はひとり画架の前で涙を流してゐた。偶然二階の彼女の部屋に行つてさういふところを見ると、私も言ひしれぬ寂しさを感じなぐさめの言葉も出ない事がよくあつた。ところで、私は人の想像以上に生活不如意で、震災前後に唯一度女中を置いたことがあるだけで、其他そのほかは彼女と二人きりの生活であつたし、彼女も私も同じ様な造型美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であつた。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓ていとんしてしまふ。さういふ日々もかなり重なり、結局やつぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くといふやうな事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が食はれる事になるのであつた。詩歌しいかのやうな仕事などならば、或は頭の中で半分は進める事も出来、かなり零細な時間でも利用出来るかと思ふが、造型美術だけは或る定まつた時間の区劃が無ければどうする事も出来ないので、この点についての彼女の苦慮は思ひやられるものであつた。彼女はどんな事があつても私の仕事の時間を減らすまいとし、私の彫刻をかばひ、私を雑用から防がうと懸命に努力をした。彼女はいつの間にか油絵勉強の時間を縮少し、或時は粘土で彫刻を試みたり、又後には絹糸をつむいだり、それを草木染にしたり、機織はたをりを始めたりした。二人の着物や羽織を手織で作つたのが今でも残つてゐる。同じ草木染の権威山崎たけし氏は彼女の死んだ時弔電に、

袖のところ一すぢ青きしまを織りて あてなりし人今はなしはや
 
といふ歌を書いておくられた。結局彼女は口に出さなかつたが、油絵製作に絶望したのであつた。あれほど熱愛して生涯の仕事と思つてゐた自己の芸術に絶望する事はさう容易な心事である筈がない。後年服毒した夜には、隣室に千疋屋せんびきやから買つて来たばかりの果物籠が静物風に配置され、画架には新らしい画布が立てかけられてあつた。私はそれを見て胸をつかれた。慟哭どうこくしたくなつた。
 彼女はやさしかつたが勝気であつたので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙つて進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事はもとより、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考へて、曖昧あいまいをゆるさず、妥協を卑しんだ。いはば四六時中張りきつてゐた弦のやうなもので、その極度の緊張に堪へられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである。彼女の此の内部生活の清浄さに私は幾度浄められる思をしたか知れない。彼女にくらべると私は実に茫漠として濁つてゐる事を感じた。彼女の眼を見てゐるだけで私は百の教訓以上のものを感得するのが常であつた。彼女の眼には確かに阿多多羅山の山の上に出てゐる天空があつた。私は彼女の胸像を作る時この眼の及び難い事を痛感して自分の汚なさを恥ぢた。今から考へてみても彼女は到底この世に無事に生きながらへてゐられなかつた運命を内部的にも持つてゐたやうに見える。それほど隔絶的に此の世の空気と違つた世界の中に生きてゐた。私は時々何だか彼女は仮にこの世に存在してゐる魂のやうに思へる事があつたのを記憶する。彼女には世間慾といふものが無かつた。彼女は唯ひたむきに芸術と私とへの愛によつて生きてゐた。さうしていつでも若かつた。精神の若さと共に相貌の若さも著しかつた。彼女と一緒に旅行する度に、ゆくさきざきで人は彼女を私の妹と思つたり、娘とさへ思つたりした。彼女には何かさういふ種類の若さがあつて、死ぬ頃になつても五十歳を超えた女性とは一見して思へなかつた。結婚当時も私は彼女の老年といふものを想像する事が出来ず、「あなたでもお婆さんになるかしら」と戯れに言つたことがあるが、彼女はその時、「私年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答へたことのあるのを覚えてゐる。さうしてまつたくその通りになつた。
 精神病学者の意見では、普通の健康人の脳は随分ひどい苦悩にも堪へられるものであり、精神病に陥る者は、大部分何等かの意味でその素質を先天的に持つてゐるか、又は怪我とか悪疾とかによつて後天的に持たせられた者であるといふ事である。彼女の家系には精神病の人は居なかつたやうであるが、ただ彼女の弟である実家の長男はかなり常規を逸した素行があり、そのため遂に実家は破産し、彼自身は悪疾をも病んで陋巷らうこうに窮死した。しかし遺伝的といひ得る程強い素質がそこに流れてゐると信じられない。又彼女は幼児の時切石で頭蓋にひどい怪我をした事があるといふ事であるがこれも其の後何の故障もなく平癒してしまつて後年の病気に関係があるとも思へない。又彼女が脳に変調を起した時、医者は私に外国で或る病気の感染を受けた事はないかと質問した。私にはまつたく其の記憶がなかつたし、又私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらつたが、いつも結果は陰性であつた。さうすると彼女の精神分裂症といふ病気の起る素質が彼女に肉体的に存在したとは確定し難いのである。だが又あとから考へると、私が知つて以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩づつ進んでゐたのだとも取れる。その純真さへも唯ならぬものがあつたのである。思ひつめれば他の一切を放棄して悔まづ、所謂いはゆる矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。私が「樹下の二人」といふ詩の中で、

ここはあなたの生れたふるさと この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

と歌つたのも此の実感から来てゐるのであつた。彼女が一歩づつ最後の破綻はたんに近づいて行つたのか、病気が螺線らせんのやうにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなつてからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくやうになつたのであつて、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはゐなかつた。つまり彼女は異常ではあつたが、異状ではなかつたのである。はじめて異状を感じたのは彼女の更年期が迫つて来た頃の事である。
 追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置かう。
 前述の通り長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であつた。女史は私の紐育ニユーヨーク時代からの友人であつた画家柳敬助君の夫人で当時桜楓おうふう会の仕事をして居られた。明治四十四年の頃である。私は明治四十二年七月にフランスから帰つて来て、父の家の庭にあつた隠居所の屋根に孔をあけてアトリエ代りにし、そこで彫刻や油絵を盛んに勉強してゐた。一方神田淡路町に※(「王+干」、第3水準1-87-83)ろうかんどうといふ小さな美術店を創設して新興芸術の展覧会などをやつたり、当時日本に勃興ぼつこうしたスバル一派の新文学運動に加はつたりしてゐたと同時に、遅蒔おそまきの青春が爆発して、北原白秋氏、長田秀雄氏、木下杢太郎もくたろう氏などとさかんに往来してかなり烈しい所謂耽溺たんでき生活に陥つてゐた。不安と焦躁と渇望と、何か知られざるものに対する絶望とでめちやめちやな日々を送り、遂に北海道移住を企てたり、それにも忽ち失敗したり、どうなる事か自分でも分らないやうな精神の危機を経験してゐた時であつた。柳敬助君に友人としての深慮があつたのかも知れないが、丁度さういふ時彼女が私に紹介されたのであつた。彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまひ、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰つてゆくのが常であつた。私は彼女の着こなしのうまさと、きやしやな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかつた。彼女は決して自分の画いた絵を持つて来なかつたのでどんなものを画いてゐるのかまるで知らなかつた。そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらふ事になり、明治四十五年には出来上つて、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持つて此処へ訪ねて来た。丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠いぬぼうへ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であつた。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。
 やがて彼女から熱烈な手紙が来るやうになり、私も此の人の外に心を託すべき女性は無いと思ふやうになつた。それでも幾度か此の心が一時的のものではないかと自ら疑つた。又彼女にも警告した。それは私の今後の生活の苦闘を思ふと彼女をその中に巻きこむに忍びない気がしたからである。其の頃せまい美術家仲間や女人達の間で二人に関する悪質のゴシツプが飛ばされ、二人とも家族などに対して随分困らせられた。然し彼女は私を信じ切り、私は彼女をむしろ崇拝した。悪声が四辺に満ちるほど、私達はますます強く結ばれた。私は自分の中にある不純の分子や溷濁こんだくの残留物を知つてゐるので時々自信を失ひかけると、彼女はいつでも私の中にあるものを清らかな光に照らして見せてくれた。

汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に をさな児のまこともて
君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ 君の見出でつるものをわれは知らず
ただ我は君をこよなき審判官さばきのつかさとすれば 君によりてこころよろこび
わがしらぬわれの わがあたたかき肉のうちにこもれるを信ずるなり

と私も歌つたのである。私を破れかぶれの廃頽はいたい気分から遂に引上げ救ひ出してくれたのは彼女の純一な愛であつた。
 大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴヰナス倶楽部クラブで岸田劉生りゆうせい君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止いはなどめを経て徳本とくごう峠を越えたもので、かなりの道のりであつた。その夏同宿には窪田空穂くぼたうつほ氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入つてから彼女が画の道具を持つて私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎へに行つた。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登つて来た。山の人もその健脚に驚いてゐた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかつた。それからは毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまはつた。彼女は其の頃肋膜ろくまくを少し痛めてゐるらしかつたが山に居る間はどうやら大した事にもならなかつた。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白からうと思つた。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目をことごとく画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年病臥中でも見てゐた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問はれた。友達ですと答へたら苦笑してゐた。当時東京の或新聞に「山上の恋」といふ見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであらう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。十月一日に一山こぞつて島々へ下りた。徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた。
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思つた。父や母の夢は皆破れた。所謂洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰はず、まるで了見が分らない事になつてしまつた。実にすまないと思つたが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらふやうに両親に申出た。両親も許してくれた。両親のもとにかしづかず、アトリエに別居するわけなので、土地家屋等一切は両親と同居する弟夫妻の所有とする事にきめて置いた。私達二人はまつたく裸のままの家庭を持つた。もちろん熱海行などはしなかつた。それから実に長い間の貧乏生活がつづいたのである。
 彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出ひきだしに金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

をんなが附属品をだんだん棄てると どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは 無辺際を飛ぶ天の金属。

と私が書いたのも其の頃である。
 自分の貧に驚かない彼女も実家の没落にはひどく心をいためた。幾度か実家へ帰つて家計整理をしたやうであつたが結局破産した。二本松町の大火。実父の永眠。相続人の遊蕩ゆうとう。破滅。彼女にとつては堪へがたい痛恨事であつたらう。彼女はよく病気をしたが、その度に田舎の家に帰ると平癒した。もう帰る家も無いといふ寂しさはどんなに彼女を苦しめたらう。彼女の寂しさをまぎらす多くの交友を持たなかつたのも其の性情から出たものとはいへ一つの運命であつた。一切を私への愛にかけて学校時代の友達とも追々遠ざかつてしまつた。僅かに立川の農事試験場の佐藤澄子さん其の他両三名の親友があつたに過ぎなかつたのである。それでさへ年に一二度の往来であつた。学校時代には彼女は相当に健康であつて運動も過激なほどやつたやうであるが、卒業後肋膜にいつも故障があり、私と結婚してから数年のうちに遂に湿性肋膜炎の重症のにかかつて入院し、幸に全治したが、その後或る練習所で乗馬の稽古を始めた所、そのせゐか後屈症を起して切開手術のため又入院した。盲腸などでも悩み、いつも何処かしらが悪かつた。彼女の半生の中で一番健康をたのしんだのは大正十四年頃の一二年間のことであつた。しかし病気でも彼女はじめじめしてゐなかつた。いつも清朗でおだやかであつた。悲しい時には涙を流して泣いたが、又ぢきに直つた。
 昭和六年私が三陸地方へ旅行してゐる頃、彼女に最初の精神変調が来たらしかつた。私は彼女を家に一人残して二週間と旅行をつづけた事はなかつたのに、此の時は一箇月近く歩いた。不在中泊りに来てゐためひや、又訪ねて来た母などの話をきくと余程孤独を感じてゐた様子で、母に、あたし死ぬわ、と言つた事があるといふ。丁度更年期に接してゐる年齢であつた。翌七年はロザンゼルスでオリムピツクのあつた年であるが、その七月十五日の朝、彼女は眠から覚めなかつた。前夜十二時過にアダリンを服用したと見え、粉末二五グラム入のびんが空になつてゐた。彼女は童女のやうに円く肥つて眼をつぶり口を閉ぢ、寝台の上に仰臥ぎようがしたままいくら呼んでも揺つても眠つてゐた。呼吸もあり、体温は中々高い。すぐ医者に来てもらつて解毒の手当し、医者から一応警察に届け、九段坂病院に入れた。遺書が出たが、其にはただ私への愛と感謝の言葉と、父への謝罪とが書いてあるだけだつた。その文章には少しも頭脳不調の痕跡こんせきは見られなかつた。一箇月の療養と看護とで平復退院。それから一箇年間は割に健康で過したが、そのうち種々な脳の故障が起るのに気づき、旅行でもしたらと思つて東北地方の温泉まはりを一緒にしたが、上野駅に帰着した時は出発した時よりも悪化してゐた。症状一進一退。彼女は最初幻覚を多く見るので寝台にしながら、其を一々手帳に写生してゐた。刻々に変化するのを時間を記入しながら次々と描いては私に見せた。形や色の無類の美しさを感激を以て語つた。さうした或る期間を経てゐるうちに今度は全体に意識がひどくぼんやりするやうになり、食事も入浴も嬰児えいじのやうに私がさせた。私も医者もこれを更年期の一時的現象と思つて、母や妹の居る九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させてゐた。私は一週一度汽車で訪ねた。昭和九年私の父が胃潰瘍いかいようで大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体は丈夫になり朦朧もうろう状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になつたり、松林の一角に立つて、光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするやうになつた。父死後の始末も一段落ついた頃彼女を海岸からアトリエに引きとつたが、病勢はまるで汽罐車きかんしやのやうに驀進ばくしんして来た。諸岡存博士の診察まうけたが、次第に狂暴の行為を始めるやうになり、自宅療養が危険なので、昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導にることにした。又仕合しあはせなことにさきに一等看護婦になつてゐた智恵子の姪のはる子さんといふ心やさしい娘さんに最後まで看護してもらふ事が出来た。昭和七年以来の彼女の経過追憶を細かに書くことはまだ私には痛々しすぎる。ただ此の病院生活の後半期は病状が割に平静を保持し、精神は分裂しながらも手はかつて油絵具で成し遂げ得なかつたものを切紙によつて楽しく成就したかの観がある。百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐あゐれんの情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きてゐる。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしさうであつた。私がそれを見てゐる間、彼女は如何にも幸福さうに微笑したり、お辞儀したりしてゐた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した顔であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。昭和十三年十月五日の夜であつた。


九十九里浜の初夏

 私は昭和九年五月から十二月末まで、毎週一度づつ九十九里浜の真亀納屋といふ小さな部落に東京から通つた。頭を悪くしてゐた妻を其処に住む親類の寓居ぐうきよにあづけて置いたので、その妻を見舞ふために通つたのである。真亀といふ部落は、海水浴場としても知られてゐるいわしの漁場千葉県山武郡片貝村の南方一里足らずの浜辺に沿つた淋しい漁村である。
 九十九里浜は千葉県銚子のさきの外川の突端から南方太東岬たいとうみさきに至るまで、殆ど直線に近い大弓状の曲線を描いて十数里に亙る平坦な砂浜の間、眼をさへぎる何物も無いやうな、太平洋岸の豪宕ごうとう極まりない浜辺である。その丁度まんなかあたりに真亀の海岸は位する。
 私は汽車で両国から大網駅までゆく。ここからバスで今泉といふ海岸の部落迄まつ平らな水田の中を二里あまり走る。五月頃は水田に水がまんまんとみなぎつてゐて、ところどころに白鷺しらさぎが下りてゐる。白鷺は必ず小さな群を成して、水田に好個の日本的画趣を与へる。私は今泉の四辻の茶店に一休みして、又別な片貝行のバスに乗る。そこからは一里も行かないうちに真亀川を渡つて真亀の部落につくのである。部落からすぐ浜辺の方へ小径こみちをたどると、黒松の防風林の中へはいる。妻の逗留とうりゆうしてゐる親戚の家は、此の防風林の中の小高い砂丘の上に立つてゐて、座敷の前は一望の砂浜となり、二三の小さな漁家の屋根が点々としてゐるさきに九十九里浜の波打際が白く見え、まつ青な太平洋が土手のやうに高くつづいて際涯さいはての無い水平線が風景を両断する。
 午前に両国駅を出ると、いつも午後二三時頃此の砂丘につく。私は一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱つぽいやうな息をして私を喜び迎へる。私は妻を誘つていつも砂丘づたひに防風林の中をまづ歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽が少し斜に白い砂を照らし、微風は海から潮の香をふくんで、あをあをとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。丁度五月は松の花のさかりである。黒松の新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のやうな、ほろほろとした単性の花球がこぼれるやうに着く。
 松の花粉の飛ぶ壮観を私は此の九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林の黒松の花が熟する頃、海から吹きよせる風にのつて、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろ恐しいほどの勢である。支那の黄土をまきあげた黄塵こうじんといふのは、もとより濁つて暗くすさまじいもののやうだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明かるく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよはせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣ゆかたの肩につもつたその花粉を軽くはたいて私は立ち上る。妻は足もとの砂を掘つてしきりに松露の玉をあつめてゐる。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がつひそこを駈けるやうに歩いてゐる。


智恵子の切抜絵

 精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいときいてゐたので、智恵子が病院に入院して、半年もたち、昂奮がやや鎮静した頃、私は智恵子の平常好きだつた千代紙を持つていつた。智恵子は大へんよろこんで其で千羽鶴を折つた。訪問するたびに部屋の天井から下つてゐる鶴の折紙がふえて美しかつた。そのうち、鶴の外にも紙燈籠かみどうろうだとか其他の形のものが作られるやうになり、中々意匠をこらしたものがぶら下つてゐた。すると或時、智恵子は訪問の私に一つの紙づつみを渡して見ろといふ風情ふぜいであつた。紙包をあけると中に色がみをはさみで切つた模様風の美しい紙細工が大切さうに仕舞つてあつた。其を見て私は驚いた。其がまつたく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であつたからである。私の感嘆を見て智恵子は恥かしさうに笑つたり、お辞儀をしたりしてゐた。
 その頃は、何でもそこらにある紙きれを手あたり次第に用ゐてゐたのであるが、やがて色彩に対する要求が強くなつたと見えて、いろ紙を持つて来てくれといふやうになつた。私は早速丸の内のはい原へ行つて子供が折紙につかふいろ紙を幾種か買つて送つた。智恵子の「仕事」がそれから始まつた。看護婦さんのいふところによると、風邪かぜをひいたり、熱を出したりした時以外は、毎日「仕事」をするのだといつて、朝からしきりと切紙細工をやつてゐたらしい。鋏はマニキユアに使ふ小さな、尖端の曲つた鋏である。その鋏一丁を手にして、暫く紙を見つめてゐてから、あとはすらすらと切りぬいてゆくのだといふ事である。模様の類は紙を四つ折又は八つ折にして置いて切りぬいてから紙をひらくと其処にシムメトリイが出来るわけである。さういふ模様に中々おもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二単衣ひとへに於ける色がさねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上にりつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。或は同色を襲ねたり、或は近似の色で構成したり、或は鋏で線だけ切つて切りぬかずに置いたり、いろいろの技巧をこらした。此の切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたのは、下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見えて不可言の美を作る。智恵子は触目のものを手あたり次第に題材にした。食膳が出ると其の皿の上のものを紙でつくらないうちははしをとらず、そのため食事が遅れて看護婦さんを困らした事も多かつたらしい。千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。
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